なる子とマーナル☆

少女の心を忘れない、なる子とマーナル☆によるアート・旅行・キッズ応援ブログ

阪神淡路大震災から25年、この世の終わりが来たと思ったあの瞬間

毎年この日が来ると思い出すことがあるのです。特別なことではないです。ただ思い出すのです。

 

震災前夜、両親は地震対策について話していました。

「富士山の噴火がいつ起こるかわからない。」

東海地震がくる。」

「家具の固定をしなければ。」

 

「…まあ、関西は大きい地震こないけどね!」

 

翌朝、地響きを感じてうっすら目覚め、次の瞬間爆弾が落ちたのかと思うような衝撃を感じました。

 

地震だとは思えなくて、世界の終わりが突然やってきたと思いました。

 

父親の「地震や!子どもら大丈夫か!?」と言う大声で地震だとわかりました。本棚からバサバサと本が落ち、前日ほったらかしだった絵の具セット水入れがパシャパシャ音を立てています。

 

揺れが収まった時、家の中はいろんなものが散乱していて、水槽の水は半分になっていて床は水浸し。魚がピチピチ跳ねていました。ピアノも動いていたし、キッチンは割れ物で入れない状況。

 

しばらくして電気が戻ってきました。テレビをつけると、大阪市内で高齢の女性が怪我をしたとニュースが伝えていました。そんなものなのか…?余震が何回か続き、怖くてお腹を壊した私はトイレに行きました。手を洗おうとすると水が出ません。トイレは一回分の水がタンクに残っていたので、救われました。

 

学校へ行ったら、先生が来れないので家に帰されました。友達と話をしたら「寝てた」と言います。まじか。

 

家の電気は戻っているものの、マンションのタンクが破裂してエレベーターは水をかぶって止まっていました。屋外の共用水道を管理人さんに開けてもらい、バケツで水を運ぶ行列ができていました。10階分、水を運ぶのは力仕事。結局、水道は1週間止まったままで、水なし生活は、特に家事を担う母にとっては本当に大変だったようです。

 

その日、午後にはようやく報道も詳細を伝えるようになり、「神戸が大変らしい」と聞きました。神戸方面の空は煙で曇っていました。

 

結論を言うと、私が住んでいた地域の地震は神戸や淡路に比べると全然大したことなかった。本当のこの世の終わりを覚悟した人たちが山ほどいて、もっと苦しんでいた。ネットも普及していないこの時代、想像を絶する混乱だっただろうと思う。

 

あれから25年かぁ。

 

年末年始に実家に戻ると、冷蔵庫の中に大量の保冷剤が入っていました。「溜めすぎじゃない?」と聞くと、「台風の時に停電があって冷蔵ものが大変だったから。」と言う。

 

備えても備えても…。

 

毎年この日が来ると思い出すことでした。