湯浅醤油で有名な湯浅町は美しい景観が残る素敵な場所でした。
湯浅から川を挟んで南側にあるのが広川町です。 かつて防災意識高い系で有名になった人を輩出した町です。
ヤマサ醤油七代目と小泉八雲「稲むらの火」
約150年前、安政東海地震(1854年)のことが語り継がれています。広川町には記念館もあります。
和歌山は入江がたくさんあり、地震が起こると津波が起きやすい地形。広川町でも地震が起きれば高台の広八幡神社へ逃げるということが慣例となっていたようです。
安政東海地震の時は前震の翌日、本震があったそうです。 そして、前震とは比べものにならない大きな地震がきて、大きな津波も押し寄せました。命がけで神社に避難するよう呼びかけたのが、ヤマサ醤油7代目、濱口梧陵でした。ほぼ冬至の頃の夕方に起きた津波です。波が引いた後、生き延びた人々も暗闇の中泣き叫びさまようばかり。そこで、自分の家の田んぼの大切な稲むらに火をつけ、それが道しるべとなって、火を目指してやってきた人たちの命を救ったということです。
その後、何度も津波は押し寄せては引き…を繰り返したそうです。
この史実がアレンジされて小泉八雲の「稲むらの火」に描かれています。小説では、地震の時点で大津波を予想して火を放っているし、多くの人々を津波から救ったように書かれています。実際には火をつけたのは1回目の津波の後だったようなので、すでに相当な被害があったはずです。
しかし、濱口梧陵の本当の偉業は、災害の後にあります。全てを失った町の復興に力を注いだことでした。
天下のヤマサ、堤防を作る
あれ?ヤマサって銚子じゃないの??と思った方いらっしゃいますか?
そう、ヤマサは広川と銚子で醤油を作り、江戸で大層大儲けした大企業なのです。
すでに多くの従業員を抱えていた濱口家は、家も仕事も失った村人たちを雇い、堤防を作りました。4年かけて完成した堤防は、何度か津波から人々を守っているそうです。
江戸の堤防(土手上:はぜ、海側:松)
昭和の堤防もあります。コンクリ。
物語として残り語り継がれていることはもちろんですが、村人に仕事を渡し、みんなでみんなの故郷を守る堤防を作った。これが一番の功績なんじゃないかな、と思いました。
周辺の所縁の地も巡ってみましたよ!
東濱口公園
濱口家は梧陵さんの西濱口家と兄弟家の東濱口家があります。元は一つのお醤油屋さんでした。西の豪邸は記念館になっていて、東濱口家はまだ現役でご家族が暮らしているそうです。もちろん普段は非公開。
平屋や、2階建が多いエリアで、異質な木造三階建?
屋根が一つ高く、この町の中ではほぼ城です。東濱口家も西濱口家と共に、かの堤防を築いた醤油の豪商です。
なんと、庭園の一部が公園として一般公開されています。
公園の中には、津波の高さを示す標もありました。ひょえ〜〜。
庭園の奥の塀が煉瓦造りでハイカラ!
外側に廻るとこんな感じ。シャレオツ!
東濱口家、堤防から見るとこんな感じ。
堤防から近いな。。。
そりゃ立地的に絶対堤防欲しいよね。それならお金出すべき、と私が村人なら思うでしょう。
いやいや、WIN-WINってことよね。なんだったら濱口家こそ、銚子にも拠点があるから逃げても良かった。村に残り、復興に尽力したことはきっと後世でも尊敬されていることでしょう。
周辺の家もすごいんです。
泉家住宅?
海運業でお屋敷建っちゃった。
この角の漆喰のカーブ!天才的な美しさ。
このデザイン!カッコよすぎる。
他にもウロウロしてたら気になる素敵なおうちがいっぱいありました。
路地裏で目に止まった雲の飾り。なんだろう、厄除けとか何か意味があるんじゃないかな。
美しい街並み!絶対津波で失いたくない!
そう思える貴重な景色でした。
広八幡神社
村人たちが津波から逃げ、目指したのが広八幡神社です。能舞台もある立派な神社。
紅葉の季節でした。
少し前はコスモスだったんだって。
浜口梧陵の記念碑もありました。津波から逃げた高台の神社です。波にのまれる故郷をどんな思いで見届けたことか…。
旧広村は広川町となり、堤防もあってしばらく大津波の被害はありません。
しかし、近年台風の被害を受けたり、南海トラフもいよいよ?と噂されるにつれ、防災意識が高まっているような感じがあります。
実は、現在の広川町、堤防の海側にあった役場など、いろんな公的機関が山側に移転中だそうです。むしろ、なぜ今まで堤防の海側にあったのか。堤防がある安心感から、災害に対して油断していたのかもしれません。
しかし、自然の力は人間の想像を超えることがあるのだと、近年の自然災害は教えてくれています。
防災の町としてどうあるべきか、決断が必要な時ですよね。役場を移すのは英断なのではないでしょうか。
湯浅エリアと一緒に旅するのがオススメの広川町でした。